僕は所謂ビジネス本と呼ばれる本を30歳になる前あたりまで、ほとんど読んだ覚えがありません。今ではリアルな書店でもネットでもビジネス書をチェックすることが多くなりましたが、それまでは、仕事柄また個人的な趣味もあり読む紙媒体と言えば、雑誌、漫画、小説、エッセイがほとんどした。
そして、これもまた個人的な志向の話なのですが、本は「じっくり隅々まで読みたい派」なので、一冊一冊を読むのに非常に時間がかかっていまいた。しかも、読み始めて途中であてが外れた感があっても勿体ないからとりあえず最後まで読む、という考え方だったため、尚更時間がかかっていました。
しかし、ビジネス書を読むようになって、そのスタイルも若干変わってきました。
よく書評を書いていらっしゃる方々や、本の読み方のような特集には、本を読むスタイルについて、 自分の必要な箇所を拾い読みしていく「多読」 専門的な知識などを得るため最後までしっかり読む「通読」 の両方が必要だという意見を多く目にしますが、この「多読」という読み方も最初は「勿体ない感」があり、抵抗がありました。
しかし、日々時間がない中で自分に必要な知識を少ない時間で得るためには必要なスキルだと思い、全体をまんべんなく読むのではなく、一冊の本から「何かひとつでも得ることができればOK!」と考え読むように意識しています。(勿論、じっくり読む必要がある本は、じっくり読みます!)
最初にしっかり記載させていただきますが、本日紹介させていただく書籍、『「いい人」をやめると楽になる』自体は、おすすめできる本ではないです。
僕の場合、本書を購入した決め手は、ずばりタイトルです。お恥ずかしい話ですが、著者の曽野綾子さんは有名な作家さんですが、今まで全く読んだことが無かったため存じ上げず、さらに、タイトルから、 「この本は自己啓発系の本だろう!」 と勝手に思い込み、心が若干病み気味な僕は何かヒントが得られればと思い本書買ってしまったため、数頁読み始めてすぐに「しまった、これは違う!」とわかりました。
本書は、曽野綾子さんのそれまで(本書が発行されたのが平成11年なのでそれまで)に出版された小説、エッセイ、新聞・雑誌への寄稿文などのなかから、印象的な文章・言葉を作品はランダムに、しかし内容はある程度系統立てられ(?)て編集されたCDでいうならベスト盤のような作品だからです。
1 人はみな、あるがままでいい
2 性悪説のすすめ
3 失礼、非礼の領域とは
4 「与える」ということ、「与えられる」ということ
5 「いい人」をやめるつきあいかた
上記のように章立てはされていますが、今いち、この分類も上手く分類されているような感じがしませんし、恐らくですが、作者の曽野さんはあまり編集作業には携わっていないのでは? と憶測してしまう内容です。そのため、彼女の作品の初心者である僕にはあまり合っていない作品だと感じました。
しかし、全体の出来はともかく 「何か人生に役立つ言葉は一つでも見つけられれば儲けもの!」 と考え、ざっくり読んでいくと、今の僕に必要な、そして今後の僕に役立つような言葉に出会うことができました。また、本書は、前述したように複数の作品の中から抜粋された文が、飛び飛びに挿入されているのですが、気になった文章をマーカーで引いたり、付箋を貼ったものを後から見返してみると、同じ作品からの抜粋に多く印が付いていることに気がつきました。
その作品は『悲しくて明るい場所』と『自分の顔、相手の顔』の2作品です。不思議なもんで、これらの作品からの抜粋文に、多くの印が付いていました。そこで、それらの作品が気になり、『悲しくて明るい場所』を読んで見たのですが、こちらにはとても感銘を受けました。
↓『悲しくて明るい場所』について書いた記事はコチラ」
こういう出会いを与えてくれただけでも、本書を読んだ価値があったかな、と。
ただ、これで締めるには、若干勿体ないので、『悲しくて明るい場所』と『自分の顔、相手の顔』以外(後日別で書くので)で、僕が引っ掛かった言葉をいくつか引用して締めさせていただきます m(_ _)m
表現を過不足なく理解するには、常識と成熟した心がいる。それが欠けているから、言葉尻を捉えての論争になってしまう。
『悪と不純の楽しさ』より
私が楽だったのは、たった一つ小説という分野を自分の専門として守っただけで、後は持ち前の依頼心の強さに戻り、人はすべて先生と思い、その人の得意なことはできるだけなすりつけて、「してもらった」ことである。
『ほくそ笑む人々』より
人は自己の生き方を選ぶべきなのである。そしてそれはまた一人一人に課せられた任務であり、社会を支える偉大な要素になる。人は違っていなければならない。 ~(中略)~ 個性を認められる、ということには孤独と差別に満ちた闘いを覚悟するという反対給付がつく。
『二十一世紀への手紙』より
付き合いの世界が広がれば、特定の人の「毒」を強く感じずに済む。自分の運命を客観的に見ることもできるようになるし、自分を痛めつける人に対しても自然に寛容になる。
『神さま、それをお望みですか』より
食卓を共にする人々は、誰でも常に、いくらかはしゃべる義務がある。つまり親だから子供だからといって、自分がしたくないことはしない、という身勝手を通してはいけないのである。
『二十一世紀への手紙』より
これらの言葉は、特に自分が意識しなければいけないと感じた言葉です。恐らく人によって、感銘を受ける言葉は違うでしょう。特に、最後の「食卓~」の文章は、あまり普通の方は「何が?」っていう言葉でしょうし。ただ、僕にとっては頭が痛い言葉でした…。