【Non-BP Life】見捨ててもいい、自分を見捨てるよりはマシだから。

絆前回の家族会に参加して以来、心の中にあるモヤモヤがどうも晴れません。

ボーダーから回復した人の話を聞くことは、ボーダーの人と接する上でのヒントを得るという意味では有益であるのは間違いないのですが、その反面、自分の場合はどうして上手くいかないのか、自分の行動又は言動に問題があるのではないかと、つい自分を卑下しネガティブ思考に陥る危険性があります。

ただ、現在は、僕はBPDであるパートナーとは離れて暮らしており、連絡も制限しているため、比較的感情の起伏は緩やかになってきています。同居時代は元より、自殺騒動の末別れた後も、暫くの間は突発的に感情が爆発することが結構あったのですが、それも収まってきています。逆に今の課題は、ある程度意図的に自分の感情を押さえすぎている傾向があるため、今後は普通に「笑いたい時に笑う」「泣きたい時に泣く」「怒りたい時に怒る」という普通の感情表現を取り戻すようにしないといけないですね(^^ゞ

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マスによって更に強調され、ノンボーダーを縛り付ける「絆」という言葉

去年の東北の大震災以来、テレビをはじめとするマスコミはこぞって、「家族の絆」「地域の人々の絆」「日本人としての絆」の大切さ、そして、それらが一般の人々の間で再発見されているというような報道していましたね。

自分の命の危険を顧みず、市民の為に最前線に残りお亡くなりになった警察官の方の話、を始め、このような報道を耳にされた方も多いと思います。確かに地震、そして津波による被害は甚大であり、現在もまだ、復興がままならない方も多くいらっしゃる中、被災地の現状を伝えるのがマスコミの存在意義なのかもしれません。

ただ、正直、自己犠牲の上に他人を救ったという話をやたらと美談のように報道する番組には、その制作意図が透けて見えるため、少々霹靂とする感もあります。また、やたらと「絆」「絆」と連呼されるものも、また同様に鬱陶しい印象を受けます。

丁度、自宅からの通学路にある道にある立看板にも、「絆 忘れない!」の文字が…。

そもそも、今回、ノンボーダー関連の文章を書くにあたって、何でこのような前文を例に挙げているかと言いますと、僕はノンボーダーとしてBPDであるパートナーを結果として「見捨てる」という結果を選択したからです。そして、この「見捨てた」という事実に対して、自分自身に嫌悪感を抱き続けているからだと思います。

だから、やたらと「絆」などという言葉を見聞きすると、その対極にある「見捨てる」という行動を選択した自分は間違っている、又は弱い人間なのではないかという考えが頭をよぎります。

しかし、このような思いを喚起させるのは、そもそも「日本人はこうあるべき!」という作られた価値観が存在するからではないでしょうか?

「家族は大切」「お年寄りには優しく」「自分の子供は自分を犠牲にしてでも助ける」…

このようなモラルは、正論過ぎて反論することが難しいです。だからこそ、時として、正論は人を苦しめます。

見捨ててもいい!たとえ自分本位だとしても…

「やっぱり貴方も私を見捨てるのね?」

もしかしたら、ノンボーダーの方は、上記と似たようなセリフをBPDの方から言われたことがあるかもしれまんせんね。ご存知の通り、境界性パーソナリティー障害の方は、一般の人とは比較できないほどの見捨てられ不安を抱えながら生きています。また、その障害ゆえが、人生の過去において、「見捨てられた」(とあくまで本人が感じているということです)経験をしているため、上記のような言葉を日常的に使います。

これは、ボーダーの方と接したことがない方に、そのような言葉を言われるときの切迫感や緊張感をお伝えするのは非常に難しいのですが、例えが悪いかもしれませんが、単なる「超わがまま」な人が同様の言葉を言うのとは訳が違います。

このセリフが発せられた後に続くであろう修羅場に身構えるためのアラームサインのようなものです。時には、本人の要求を満たすことができないコチラ側の非難する罵倒に繋がり、時には、リストカットやODなどの自傷行為に繋がるなど、こうなってしまったら大抵は、こちらに出来ることは、嵐が去るのをひたすら心の中で祈りながら、こう言います。

「何があっても、見捨てないよ!」

勿論、本心からこう言っているのですが、と同時にこう言わないと嵐は激しさを増すことが目に見えているからです(こう言ったからといって嵐が収まる訳ではありませんが)。ただ、その心の中では、スパッと見捨てることができたら、きっと楽なんだろうな、なんてことも思ってましたけどね。

でも、できないんですよ。どんなに自分自身が傷つき倒れそうになったとしても。これには、本人との関係性がもちろん第一条件ですが、前述したような日本人として自己犠牲は美徳みたいなものが結構自分の考えを決定する上で影響力を持っているんだと思います。

仮にですが、世間の風潮として、どんなことがあっても自分が一番大事、という価値観が支配する社会に生きていたら、違った結果になるのかもしれませんね。

自分がその嵐の中にいたときは、あくまで「自分になにがあっても、自分からパートナーを見捨てることなんて有り得ない」と考えていましたが、今は少し冷静に当時のことを振り返ってみると、そのような日本人的価値観も影響していたのではないか、と思うようになったのです。

「相手を見捨てない」という代償として、僕はいつの間にか「自分自身を見捨てていた」のでしょう。

そしてその思考の結末は、「自分自身を消す」という方向に至りました。今は結果としてたまたま生きていますし、その思考の結果が「相手を消す」という結果に至らず本当に良かったと心の底から思っています。

相手を「見捨てる」

という言葉は非常にネガティブな響きを持っていますが、ノンボーダーの方はBPDの方を支えきれなくなったとき、その相手を結果として「見捨てる」という結果になったとしても、それはなんら悪いことではありません。確かに後味は悪く、後の人生に長く影響を及ぼすかもしれません(僕もいまだに影響を感じています)。

それでも、遥かにマシです。

自分自身を「見捨てる」よりは!

きっと、この瞬間にも、日本の何処かで、現状に苦しんでいるノンボーダーの方がいると思います。「相手を何とか救いたい!」という想いが、「見捨てる」という考えを時として押しのけるかもしれません。でも、自分の力だけではどうしようもないことはあります。

そんな時は、必死に逃げてもいいんだと僕は思います。

オリジナル記事の投稿年月日:2012年5月27日
当記事は管理人が過去に運営していたブログ『」リー:リー:リー』に投稿した記事です。管理人のミスでブログ自体が消滅してしまいましたが、ノンボーダーとしての経験は避けることができない人生の一部であるため、元記事を若干修正のうえ、再アップさせていただいております。

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